「……後ろ」 レボラの声と、背後からの物音がほぼ同時にアイの耳に届く。 反射的に、左手の銃と共にアイは振り向く。 携帯コンロの明かりは頼りなく、景色は暗闇が支配していた。 光の届かぬ間合い、10メートルほど先の宙に何かがあった。 宙にとは、正確にはそれしか見えないからだった。 他の部分が闇の中に潜り込んでしまって、 それだけが浮かんでいるように見えた。 薄く発光する、小さな赤い球。 アイは何かに似ていると思い、すぐに気づく。 レボラだ。 つい先ほどまで銃口を向けていた、レボラの眼と同じ光だ。 (こいつの仲間?) それがアイのほうへと向かってきた。 先の細いものが地面を突くような音が無数に響いてくる。 聞きなれぬ異様な音にアイは戸惑い、一瞬銃の狙いが乱れる。 けれど照準はすぐ一つに、赤い光のある方へと定まる。 発砲。 狙いは発光体より少し下。 もしあれがレボラと同じものならば、胸か腹に当たるはず。 着弾の音はなく、それも接近する速度を緩めない。 次弾を撃つ間もなく、アイとそれの距離はほぼゼロになった。 消えかけた火の明かりを前に、それが全形を晒す。 赤い光点以外何もない、真っ平らな顔を持つ頭部。 レボラと共通しているのはそれだけだった。 頭部と繋がる、円盤状の胴体。 その左右から4本ずつ、合計8本の細長い足が伸びている。 足はアーチ橋のように幾つかの関節を曲げて体を支えている。 『蜘蛛』。 アイの脳裏に、本来はちっぽけな虫の姿がよぎる。 それはまさしく、機械仕掛けの巨大な『蜘蛛』だった。 最前の足が一本持ち上がる。 正面から見たときはわからなかったが、その末端は非常に薄い。 照らされて放つ輝きは、レボラの剣と化した手と似ていた。 アイに向けて、足がギロチンのように振り下ろされる。 同時に、アイの腹にフックのようなものが当たる感触があった。 それは素早くアイの体を引っ張った。 アイの目の前で、『蜘蛛』の足が音もなく空振りする。 「逃げるよ」 アイの後ろ、ほとんど後頭部から声がかかる。 振り返るまでもなく、レボラだとわかった。 フックだと思ったのは、レボラの鋼鉄製の腕だ。 「うわっ! ちょっと!」 レボラが腕の中でアイの体を回す。 アイの頭を背中側にして豆袋のように右肩に担ぐと、 一目散に駆け出した。 走る。走る。走る。 人一人を肩にながら人間離れした速度でレボラは疾走する。 進行方向とは反対を向いたアイにも、 遠ざかる景色や流れる空気でそれを感じとっていた。 同時に、彼らの追跡者も。 地面を突き立てる足音を響かせて、警戒色の眼をまっすぐ向けて。 『蜘蛛』はアイとレボラを追いかけてくる。 『蜘蛛』は八本の足を規則正しく蠢かせて走る。 その速さはレボラの足を上まわり、 一度は遠ざかった距離が段々と詰められていく。 「追いつかれる!」 「そうだね。だから、あそこへ逃げ込もう」 進路をわずかに左へ切って、レボラは一つの廃墟に向かっていく。 元はなにかの倉庫と思われる建築物。 中身を守るためのシャッターはすでに朽ち果て、 車が入れる大きさの入り口がレボラを迎え入れようとしている。 「……って。あれじゃあ、あいつも入ってくる!」 「あんまり頭をあげないで。危ないから」 建物を視認しようと首をよじるアイにレボラが注意を促す。 アイの苦情を無視して、廃墟の暗がりに駆け込む。 その時には、『蜘蛛』との距離は2メートルまで迫っていた。 建物の中は抜け殻のようだった。 そこへ二種類の足音が鳴っては反響し、建物内の静寂をかき消す。 『蜘蛛』は順調にレボラを追い詰める。 建物内は障害になるようなものもなく、 瓦礫の散らばる外よりもはるかに走りやすい環境だった。 倉庫の入り口は片方にしかなかったらしい。 レボラの走る先には窓一つない壁が待ち構えていた。 「袋のネズミじゃない!」 「ネズミか。たしかになぁ」 アイの悲鳴に近い苦情に対して的外れに答えて、 レボラは走りながら、右側の壁のほうへと寄せていった。 『蜘蛛』は最前の二本の足を掲げて構えた。 レボラ達が間合いに入れば即座に、 抱き込むように左右から挟み、引き裂くつもりだろう。 体勢から、アイは鼻を中心に真横に切られる自分の頭を想像する。 それは切られた果物の果汁みたいに血と脳漿を撒き散らせ、 ここの固い床にべちゃりと落ちる。 頭を振って染みつきそうなイメージを必死で拭おうとする。 突如、がくりと下へ、アイの体に負荷がかかる。 レボラが急に突っ伏すように体勢を前へ傾けたせいだった。 浮遊感と重圧感の連続で、彼の軽口も耳に入らない。 「ネズミは抜け穴を熟知してるものだからね」 建物の隅。 そこがわずかに崩れ落ちて、小さな穴が空いていた。 高さはレボラの身長の約半分。 倒れてもおかしくない角度で、レボラはそこへと駆け込む。 『蜘蛛』の間合いに入ったのはそのときだった。 『蜘蛛』は裁きを下すように、容赦なく刃を振るった。 アイは髪の毛が何かをかすめるのを感じた。 それが壁なのか、『蜘蛛』の刃なのか判別はできなかった。 潜り抜けた穴は、外に通じていた。 外から見える壁には、真横に2つの線が引かれていた。 線に挟まれた部分が崩れ落ちる。 線の正体は『蜘蛛』の刃が走った軌道だった。 崩れた壁の向こう側から赤い眼が覗いていた。 それを見て、アイは再び恐怖で緊張した。 直後に、甲高い悲鳴のような轟音がした。 それが鉄骨が歪み、擦れあう音だとアイはわかった。 崩れたのは『蜘蛛』が裂いた場所だけに留まらなかった。 『蜘蛛』の刃は支柱の一つにまで達していた。 ただでさえ建っていることが奇跡のような廃墟が、 切られた部位が止めとなって、断末魔をあげ始めたのだ。 たった一箇所を指で小突かれたつみきのように他愛無く、 倉庫の廃墟は全壊した。 「やった……の?」 「いや。そんなに脆くはないよ、あいつは。 でも、これで撒くことができる」 「だから、もうしばらくその席で我慢しててね」 「えっ? きゃあ!」 レボラは速度を緩めることなく走り続ける。 瓦礫の中へ潜り込むように、不安定な足場を踏み抜ける。 その反動は、抱えたアイを乱暴に揺さぶり続けた。